「ヤングケアラー わたしの語り」を読んで、とかく「健気」、「かわいそう」と外部から捉えられがちのヤングケアラーの内からの声を聴きました。
ヤングケアラーとは18歳未満の子供が家族などのケアの中心に携わってきた人たちで、今まで福祉の溝に落ちて見えてこなかった彼らの存在に光が当てられるようになって、救済方法などが政策決定されるようになってきました。
政治や福祉の対象として、彼らのおかれた立場を救済するのはもちろん必要ですが、それでは、なぜ彼らが、本来ならば自分自身の成長で精一杯の時に、家族などの他者のケアを担わなければならなかったのか、それは運命が強いるという受け身のことであっても、宿命として長年ケアを担ってきた彼らの主体性はどのようなものか。
悲劇の子という立場で彼らの心の叫びを封印してきたという思いが、長年彼らを研究対象として深くかかわってきた編集の渋谷氏の中にあったようです。
彼らの語りは、「堰を切った」ようにあふれています。そこには、外部の無責任な者が想像しがちな、不満や怒りが充満しているだろうという予想を裏切り、確かに自分の置かれた理不尽さに対する怒りのようなものもありますが、それよりも彼らを悩ましていたのは、この辛さをだれにもわかってもらえないという強い孤独感でした。
むしろケアを引き受けたことに対しては、強い責任感と誇りと、そして何よりもケア対象への深い愛情を感じました。
本来ならば自分本位で好き勝手にやりたい時期に、それを抑え、相手のために尽くす。
そして彼らにケアされる側も、ただケアされるだけではなく、病の苦しみに加えて、愛する子供に自分の存在がそうさせているという自責と申し訳なさ腹立たしさにまみれながらも、懸命に病と闘う姿を見せることで命の大切さを子供に教えていること、そして濃厚な親子の関係によって、たっぷりと愛情を注いでいること。
ヤングケアラーはそんな彼らのすべてをしっかりと受け止めて成長していったことが、彼らの語りから伺えました。
彼らをいたずらに持ち上げる側の心の底には「自分はとてもできない」という劣等感があると思いますが、私もそうですが、それよりも、彼らがもっと心を開いて胸のうちを聴き取ることで、自分と等身大の彼らがどうしてそこまでできたのかを理解することができるのではないかと思いました。
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