韓国の女性法心理学者であるキム・ジヘ著「差別はたいてい悪意のない人がする」を読んで、まさに目から鱗でした。
ジヘ氏が対象としているのは、儒教思想が色濃く文化として残っている韓国社会の差別についてですが、その根底にはすべての人間に共通する「差別する心」についての深い洞察があります。
そして何よりも驚いたのは、題名にもあるように(これは作者自身が差別加害者になったことの実体験からくる)、従来の「悪意のある差別者」が差別をするのではなく、全く「悪意のない」善良だと自他ともに認める人の心の底に潜む差別がどのように生まれ、そしてどのような社会的背景で表明されるのかを論理的に解明していたところです。
答えは、差別は「社会構造によって生まれる。だから、その社会の一員でもある私たちは、いつでも差別をする者、される者になりうる」ということです。
私自身差別はするのもされるのも嫌いなので、できるだけ差別しないような言動や心構えを意識してきたつもりですが、権力の偏重する社会構造の中で生きていると、自分が加害者なってなっていて意識せずに差別を生み出している可能性があることを意識しました。そして、その力関係で自分自身も差別される側にもなることを。
これは大変難しい問題で、つい「そういうものだから。」と異議申し立てすることで対立を表明する軋轢を回避し、現状を容認してしまっていたことも、改めて意識しました。
でもそれでは、社会はいつまでたっても、差別に苦しむ人を温存させ続けるのだと。
まずは、自分のなかにある、社会構造によって生み出される差別を見つめ、それがいかにして作られたのかを知り、そしてどうしたら、そのような差別がなくなるかを考えていきたいと強く思いました。
コメントをお書きください