最近歳のせいか、自分のキャパシティーをつくづく実感します。
体力的にも精神的にも。
もともと低き方へ流れる性質なので、無理をするのは嫌いというよりもできないタチで、
勤勉な人、馴染めな人、忍耐強い人が、逃げず、耐えて、頑張るのを「すごいなあー」と感心しながら、
けれども、自分はできないなあと、情けなく感じてもいました。
このような自分の資質を「キャパシティー」の概念で捉えるようになりました。
力量と言い換えてもいいかもしれません。
人にはそれぞれ与えられた「キャパシティー」、それは後天的にある程度は個人の努力(これもキャパシティーに左右されるのですが)いかんに問わず、絶対値としてあり、かなりのところそれは所与として決定されているのではないか。
個人ができることは、それに「適応」するだけ。つまり、諦めと、そのキャパ内でどうしていくか工夫することではないかと。
諦める場合、自分が求めるものと、自分の今持っているもの(物質的なものに限りません)のバランスから、そうしなくと生き辛くなるので、多くの願望を手放さなければならなくて、それを断念するのは辛いのですが、
その反面、手放したときの解放感、楽さなども得ることができるので、低きに流れる私としては自然とその方へ傾いてしまいます。
キャパシティーは時間の量とも関係します。
もし人生が永遠ならば、それを断念する必要はなく、少しずつでも努力を続けていれば、諦めなければ手に入れることができる可能性も残されていますが、悲しいから、自分に与えられた時間は有限です。
それを特に対人的な関係性における自分のキャパシティーで強く感じます。
本当はどこまでもやってあげたいのに、
「ごめんなさい。私の限界はここまでです。」と告げなければならないとき、
自分のキャパの量の少なさに、申し訳なさと情けなさで辛いです。
けれども、自分のキャパには「適応」するしかないですね。
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