2020年オリンピックイヤーに合わせてではないですが、2年も!走りこんできたアディダスの「boost」に代わって、アシックスの「kayano gel」に変えました。
毎朝10キロ弱のジョギングに耐え続けて、靴底はすり減ってしまっていましたが、靴補正剤まで使って、吐きつぶしていました。
走っているときほど、地面を意識するときはありません。足裏が地面を感じる媒体としてのシューズ。走りこむほどに体の一部のように感じられて、本当は底がすり減ることで膝や股関節に負担がかかるので取り替えなければならなかったのですが、愛着が深くなってしまい、なかなか手放すことができませんでした。
走っている最中は、酸素不足がもたらす肉体的負荷のため、肉体が強く意識されます。
歩くときには感じない、ほんの少しだけ息を弾ませるほど速く走るという行為が、自分の肉体の限界を知らしめ、意識は肉体に閉じ込められ、しかし走っていると、酸素不足が脳にエンドルフィンを分泌させるのか、その苦しさが少なくなり、肉体は意識から遠のいて、爽快感に満ちてきます。
私にとってはこの毎朝のこの「劇的な1時間」は、自分の肉体を強く意識する不思議な一時間の体験です。
これが味わいたくて、走るまでのやや憂鬱な気持ちを奮い立たせることができるのだと思います。
その1時間の意識の変遷のお供であったシューズが、限界を超えて、取り替えることにしました。
新しいシューズはまだ足には馴染んでいないので、足裏に違和感を覚えて、走りもぎこちなくなってしまいましたが、やがて走りこんでいくと、足の一部になってくれるだろうという予感がします。
私はモノに対する執着は薄いほうで、フェティズムを感じることはほとんどないのですが、ジョギングシューズに対して、これほど愛着が沸いていた自分に驚きました。
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