愛読している内田樹氏のブログの中で「新しいけれど懐かしいものは、思いがけないところから登場してくる」という言葉がありました。両親に東大全共闘経験者を持つ若者との対談で、自身経験者である内田氏が「あの時代」の感覚を、観念的な回想ではなく、身内からの生の感覚で知っている当事者から感じた驚きを評したものです。
そして村上春樹の「どの時代でも知性の総量は変化しない」という言葉も。
つまり時代、時代によって、最高の知性は減りもしないし増えもしない、ただ偏在しているだけ。
だから新しい時代の知性は「思いがけないところから」登場してくるのだと。
現代の日本社会において、若者に活気がないと捉えるのは、自分自身の世代の価値観からしか物事を捉えることしかできないオールド世代の味方であり、新世代が活躍しているフィールドを知らないだけ。
「思いがけないところ」は、力の抜けた、何気ない、「そこ、ここ」に存在しているようです。
確かに、今の若者たち(あ~このセリフをいうようになったとは)のは、歴史上まれにみる圧倒的な情報量の洪水にさらされながら知性を磨いてきた初めての世代です。
どの時代でも人間は自分自身の知性を高めるために情報を求めてきましたが、それが十分に満たされることはありませんでした。だから知性の偏向は必然的な帰結で、考えが狭かったり、極端だったり、それゆえ、柔軟性に欠けていたり。つまりは、「偏っている」のがデフォルトで、自分の考えの狭さに気づくことさえ難しい状況だったように思います。
しかしながら幼いころから情報の渦にさらされてきた現代の若者は、我々オールド世代などに比べて、特に優秀な人はずっと情報リテラシーが高く、それを自分自身の生き方に反映させて、オールド世代の価値観では考えもつかない「しなやかな」生き方を模索し、実行しているようです。
内田氏はそれを既成の価値観をぶっ壊そうとした全共闘のDNAが、世代を超えて受け継がれ、形を変えて現れたのを、この若者に感じたのではないでしょうか。
私も若い人と話して、??と感じることはありますが、いやな感じを受けたことはありません。
彼らはみな柔軟でフレキシブルな感覚を持っていて、オールド世代の価値観も理解し、それを全否定することなく、しかしながら、自分たちは自分たちのやり方で自然体で生きているように感じます。
それは彼らの持っている「懐かしさ」からくるのかも知れません。
コメントをお書きください