デヴィッド・ユーリン著「それでも読書をやめない理由」を読んで、デジタル機器による情報収の急速な進歩により、紙に書かれた文字を読み進める「マナログな」読書という形態がいかに危機に瀕しているか、著者の体験に深く共感しました。
私は重度の活字中毒者で、そして読む活字の大部分を紙媒体の本からであるという、まことに昭和な人間です。
このようにブログを書いたり、ネット新聞のダイジェストをみたり、検索で使ったりする以外は、NHK語学のストリームを聴くぐらいで、ネット利用は比較的短時間でした。
と、過去形になってしまうのは、ようやく2か月前にスマボデビューして以来、それまでの携帯は一日に数度のメイルチェックしか使っていなかったのに、頻繁にスマホをチェックするようになってしまったことです。
それまでいつも読書している部屋とは離れた部屋にパソコンを置いていたために、ネット使用は限られていましたが、スマホになってからは手近なところでネット接続ができるため、ついつい、チェックする習慣がついてしまいました。
そしてユーリン氏がそうであるように、私も読書に集中することが困難になってきました。
本に向かって活字を読んでいても、スマホが気になり、ちょくちょく中断して、あれこれアプリを見てしまいます。
本で一つの物語やテーマをじっくり時間をかけて読む精神状態になかなかなれなくなってきていることを、この本を読んで改めて自分も実感しました。
文字を読むというのは人間の本能ではなく(その証拠に文盲の人は世界中に大勢います)、人間が文化によって後天的に身につけた能力で、脳はそのための専用の機能はなく、他の機能を代用して文字を読むようになりました。
だから文字を読むことは教育で訓練しなければなりません。
そして紙媒体の読書も、人類の歴史の中で大衆に普及しだしたのは、
グーテンベルグが活版印刷という当時のハイテクを発明したせいぜい500年ぐらい前のことです。
読書の体験もそこから生まれたものです。
そしてそれは人類の文化をそれ以前とくらべて大いに変えてきました。
それは脳の使用という生理的変革でもあったと思います。
だから21世紀の今日、デジタル媒体の普及が、私たちの脳に作用し、その使用の変化をもたらすのは、
紙媒体の活字の発明と普及と同じようなものだとも言えます。
ただその変化があまりにも急速であり、決定的なものであるように感じられます。
大量のデジタル情報に触れるようになって、私たちの注意力が散漫になり、
一つのことに集中するのが困難になってきています。
読書はもっとも精神を集中させる行為ですが、それが困難になってきているというのは、
必然的な結果であるのかもしれません。
文芸批評家でもあるユーリン氏が、紙媒体と距離のある息子や娘の状態を嘆きながらも、
そして自分自身も彼らと同じようになってきていることに驚愕しながらも、
それでも読書が与えてくれる至高の体験を失いたくない、味わいつづけたいという思いに深く共感し、
私自身のスマホとの付き合い方も考えていきたいと思います。
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