哲学者宮野真生子、文化人類学者磯野真帆子の往復書簡「急に具合が悪くなる」の中で、
「偶有性を引き受けるときに、私たちは自分という存在を発見する。」という言葉に出会いました。
この本は、末期乳がんを患う宮野氏が主治医から
「(もう標準治療は手を尽くした)、これからは急に具合が悪くなります。」
という余命宣告を受けた直後に出会った磯野氏に対して、宮野氏が往復書簡出版を持ちかけ、2か月後宮野氏の死後、出版されました。
九鬼修三哲学の「偶有性」を生涯のテーマとし、哲学者として自身のがんという病についての「偶有性と必然性のはざま」を考え抜いた宮野氏が、磯野氏という好敵手相手に、最後の命を振り絞って、偶有性の輝きを未来に照射しています。
宮野氏は30代という若さで乳がんを患った偶有性、しかしながら症状がどんどん進行していき、やがて死という必然に至るのか?がんを患うことは全き偶有性のはず(祖母、父もがんでなくなってるけれども)なのに、その偶有性に自分の未来の必然を支配されることの理不尽。
偶有性を引っ提げて必然に抗い続けることはできるのか?
哲学者として文字通り「命を燃やし」ながら、最後の日々を考え抜いた様子が書簡から迸ってきます。
そして宮野氏が偶有性について発見した知見は、「他者との出会い」です。
「他者との出会い」という偶有性が、その人の人生の中で必然性と揺らめきながら、一本のラインを引いていく。その偶有性と必然性の織り成す軌跡が人生というものではないかと。その偶有性に恐れることなく「ダイブせよ!」と。
偶然を引き受けるときに、私たちは自分の存在を発見する。
そこで、自分が生まれてくるのだとすると、私と出会って他者を通じて自己を生み出す。
書簡の形で他者である磯野氏に開かれた偶有性が、まさに宮野氏にとって自己の再生だったのだと感じました。
るときに、私たちは自分という存在を発見する。そこで、自分が生まれてくるのだとすると、私と出会って他者を通じて自己を生み出す。」
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