内澤旬子氏の「着せる女」を爆笑の連続で一気に読み終わりました。
本の内容は内澤氏の友人知人の出版業界(衣服偏差値38)の残念な男性を、カリスマフィッターの力を借りて「抱かれたい男」に変身させる、使用後使用前の写真付きの変身物語です。
内澤氏は、(美人で)若いときからおしゃれ好きで、イラストレーターであり、本の装飾や紙のコレクターもされていて、鋭い美的感覚をお持ちのようなので、「スーツフェチ」の性向もあって、周囲の「ださい」男性を変身させる願望がふつふつと募ってきていました。
そこで友人の辺境作家高野秀之氏がノンフィクション大賞を受賞し、その授賞式に着ていくフォーマルな服を身作ろうということをきっかけに、「着せる」ことの快感が爆裂したようです。
カリスマフィッターとの出会いもあり、そのマジックのような手法で、「ダサい」→「抱かれたい」へと変身するのを目の当たりにして、服の持つ威力を改めて驚いたようです。
私自身開院してからの服はすべて患者さんの「お古」。おしゃれな患者さんが、衣替えもしくは断捨離の際に、十分着れるのだけれども自分はもう着ない、しかし捨てるのは惜しいという気持ちが、「服に全く拘りがない。何でも喜んでいただきます」の私が恰好の取引先となり、毎シーズンごとに段ボール箱一杯の服を頂き、幸いに患者さんと身体サイズがほぼ同じなので、補正することなく、自分では絶対選ばないような服を嬉々としてきて、評判は上々なのを機を良くしています。
私は内澤氏ではなく、女でありながら若い頃からスタイルの悪さを気にすることもあり、女でありながらまったくファッションに興味がなく、服を買うことに興味がなく、というか苦痛でさえありました。まさに氏の周囲の「ださい」周囲の男性と同類です。
どんなことでもそうですがファッションは経験値が特にものをいうとこの本を読んでつくづく感じました。
特に紳士服は、限られた型やアイテムで、それでいてそれと切る人との関係が、無限に広がり、極めれば極めるほど奥の深い世界なのだと知りました。
そしてどの文明でも、衣服の第一の目的は身体を保護という本来の目的ではなく、人から自分をどのように見てほしいか、扱ってほしいかという、コミュニケーションツールであるということを改めて感じました。
なんでもいいからとにかく快適で(動作に邪魔にならず)、ぶなん(目立たない)ものを最優先にすることは、衣服の原理である「人から」と逆行する「自分から」の発想であり、現代の衣服のもつ意味からしてもまちがっているのだと反省しました。
それにしても内澤氏が夢中になるのもわかる。本当にその人にふさわしい衣服をまとったとき、その人自身さえも気づかない魅力が引き出されるのだと、カリスマフィッターに見繕ってもらった男性たちの自信に満ちた嬉しそうな表情を見て思います。
衣服はだれのため?
それは他者を通して自分を見つめるためのアイテムだと思います。
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