僧侶南直哉・元ハードルオリンピックメダリスト為末大氏が、南氏が住職を務める恐山の禅寺で、為末氏が南氏の座禅の指導を受けながらの対談を読みました。
アスリートとして自身の身体感覚を常に言語化してきた為末氏は、25年にわたる競技人生の間、ずっと「走ることの意味」、「勝つことの意味」を問い続けてきたそうです。
為末氏は、走り始めた初期のころは、先天的な身体能力の高さから、誰よりも早く走れることができ、自分が走ることで人に認められ、驚嘆と称賛を受けることが快感であり、トップを狙うことが走ることの意味であったようです。
しかし、高校生のころから伸び悩みを体験し、種目を短距離走の花形から400メートル、さらにはハードルへと変更し、自身のトップを狙う目的に対する手段を変更したり、大学時代にコーチをつけず、独りで長いスランプに苦しんだ体験の間、「なぜ走るのか」、「走ることに意味があるのか」を為末氏は問い続けてきたようです。
スランプから抜け出し、2度の世界大会で走っているときに「ゾーン」体験をし、その強烈な感覚に執りつかれて、その後の競技人生は、その体験を追い求めるようなものであったと為末氏は南氏に打ち明けます。
南氏はそれは座禅におけるすべての感覚が消失し、自他の区別がなくなり、世界と一体化する強烈な快感に包まれる深い禅定に至った時と似た感覚だといいます。ただし、その状態は、移り変わりゆく意識の変性の見せる技に過ぎないと、その感覚に執着してはならず、受け流していかなければ、目指すべき悟りには至れないとのこと。
南氏は「意味はシステムの中で作られる」といい、スポーツはその典型であると。
スポーツはシステムのルールの中で勝敗のゲームが生まれるものであって、そのシステム外の人にとっては「どうでもいいこと」に意味付けをしているに過ぎない営みであると。
スポーツに限らず、すべてのことは、このように囲われたシステムの中で意味が立ち上がってくるもので、人はこのように己の生を意味付けしなければ生きていけないものだと。
なぜならば、「生きていることには意味がない」。人は生きているよりも死のほうがデフォルトであると、南氏の独特の世界観が語られます。
南氏も為末氏も、どうしても言葉で意味を紡いで生きていかざるを得ない「体質」のようで、二人は深く共鳴しているようでした。
私自身も、この意味の任意性にとらえられる「体質」のようで、いつもシステムの外から自分自身のやっていること、他者が必死で取り組んでいることに、「熱く」なれず、どこか冷めていて、「どうでもいいじゃん」というもう一人の自分がいて、何事にも当事者になり切れない思いを強くもっていたので、お二人の感覚に共感します。
それは物心ついた時から自分の感覚を無意識のうちに言語化することが倣いとなっていて、システムの実存を相対化してしまうからなのだと、自分の「体質」にも気づかされました。
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