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「依存」を組み込んだ平等

 フェミニスト法哲学者フェダー・キティが、「ひとは誰でも母の子」の表現で、「依存」の概念を肯定的に捉え、すべての人が平等に社会に参加する権利=正義の西洋社会での歴史的成立の背景に、実は健康で「自律」した成人男性をメンバーとして想定されていることを指摘し、そこから排除される、女性、障碍者、高齢者をも含んだ平等概念の再構築を提唱しています。

 人は誰でも、全面的に他者に依存する生き物としてこの世に誕生し、母(なるもの)のケアによって生かされて成長し、やがて老いて再び別の他者に依存してその生を終えます。

 依存の期間は人生の1/4にもわたり、自分の存在に義務と責任を負い、自由に行動することができる=自律可能な状態はその間の限られた期間であるということを改めて思いなおしました。

 私の自律はそれを支えるケアによるということ。だから自律とはその時々の個人の状態によっても変わる相対的なものであり、人生の一時期には自分自身が他者をケアする存在になることもあり、また常にケアを受けながら生を営む障碍者や高齢者も、「私」の可能体の一部として捉える視点が必要だと感じました。

 キティ氏自身が重度の知的障碍者である娘のケアをしながら、娘、そしてケアする母である自分自身を社会の一員として平等が実現できるような倫理の確立を考えてきました。

 そしてケアは歴史的にいつも女性が担ってきて、ケア行為はシャドウワーク、アンペイドワークとして社会的に価値を認められてきませんでした。

 しかし、「人はだれでも母の子」であることによってこの世にある存在であるという実存のあり様を真摯に受け止めるならば、ケアを受ける人、ケアを与える人も等しく社会を構成する一員として平等な権利が保障されるべきだと思いました。