雪の天気予報がはずれて雨のためジョギング中止で、予定通りゆっくりと朝風呂に浸かりながら、
翻訳家藤本和子氏が1970年代のアメリカ南部に住む黒人女性に聞き書きした
「塩を食う女たち」の中で語られる声に耳を澄ませました。
黒人であり、女であるということ。
これは世界から二重の疎外を受ける対象である。と言われているほど、
当時のアメリカ南部の黒人女性の置かれた状況は過酷なものでした。
藤本氏に自身の半生を語る女性たちの誰もが、
想像を絶する自身を取り巻く環境の中でも、
しかし、子として、母として(全員夫とは離婚)女で一つで人生を切り開いていっていました。
貧しいという言葉が意味をなさないほどの、当時の黒人の置かれた状況で、
人間としての尊厳を踏みにじられ、心身に暴力を振るわれ、
それでも、同じような境遇にいる人、自分よりも過酷な状況にいる人と結びつき、
援けられ、援け、自分たちの地位向上のための社会的活動にも参加し、リードしてきた
強靭なたくましい精神。
けれども、彼女たちの語りの中には、恨みつらみのルサンチマンは感じられず、
淡々と自分の運命を引き受け、逆境をばねに、人生を主体的に自分で選び取ってきた者だけが持つ
威厳とプライドと、人格の厚みが感じられました。
ほとんどの女性が40代でしたが、彼女たちは10代に満たない年ごろから、家族や社会で労働者として働きはじめ、
もうその年では老年の心境に達するほどの経験を積み、それが年齢上の老成を感じさせたのでしょう。
彼女たちの語りには、聴くものを魅了する不思議な力を感じました。
そこには作為的なものは感じられず、語ることによって、彼女たち自身の人生を再度紡ぎなおし、
豊穣な満足感を覚えました。
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