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虫食い栗から思うこと

 今年も実家の山で取れた栗を送ってもらい、さっそく圧力鍋でゆでて食べました。

今年の栗は例年にくらべておおぶりで、栗好きな私はふぉくふぉくとしたその感触を楽しみながら、

せっせとスプーンで描きだし食べる手がとまらず、お腹がぱんぱんにふくれてしまいました。

 だいたい5つに一つは虫食いの栗にあたり、高圧で死滅した虫の死骸をかきだしながら、

食い意地の張った私は、それでも残りの部分を食べました。

 スーパーで売られている栗にはもちろん虫食いなどないのは、農薬を何度も散布しているのでしょう。

まあ、イガの中まで浸透する割合は少ないでしょうが。

 虫食いの栗を黙々と食べながら、なんだか自分が、冬眠前の熊のような気持ちになりました。

また、縄文人たちも食糧の乏しくなる冬に備えて木の実などを食べて脂肪で蓄えたり、残りは貯蔵でも

したのかなあと。縄文時代にも思いをはせて。

 

 自然の恵みをそのまま頂いている時は、少しだけ、生き物の原点に帰るような気持ちになります。

 農業が始まる前の狩猟採集生活は、すべて自然が生産するものをヒトが「いただいていた」くことでのみ、

命をつないでいたのだなあと。

 自分の生命が完全に天地だよりであった当時の生活は、

飽食日本社会の現状からすると、なんとも心細いものだと感じます。

 けれども、21世紀の現在でも今だ、ヒトが食べるものすべてが、

それが農業という人為的な行為によって作り出されたとはいえ、

自然の恵みにより生み出されていることには変わりありません。

 ヒトが食べるものはどんなに加工されていても、

その原料は工業的につくりだされたものではありません。

 増え続ける世界人口を養っていくのに食糧不足が必然だと経済学者のマルサスが唱えたのは、

もう100年以上前ですが、その危機はますます切迫したものになってきているのに加えて、

近年の気候変動によって、人類の文明が築き上げてきた人為的に食糧を作り出す農業システムでは

十分な収穫高を上げることができなくなったり、自然災害のために壊滅的な被害を受けたりと、

 やはり、いまだに私たちの食べるものは、自然頼みであることに変わりはないのだとつくづく感じます。

 その意味で、21世紀に生きる私たちの食に対する切迫度は、野生の熊や縄文人の食に対するそれと

なんら変わりはないのではないかと、

 虫食い栗をほじくりながら、つらつらと考えたのでした。