昨日21日初夏を思わせる晴天で、東京は観測史上最も早い桜が満開になっていました。
治療出張で緑道を歩いたのですが、3連休で多くの家族連れが満開の桜をバックにスマホで写真を撮っていました。
けれどもなぜか毎年眺めている桜を見て、その満開の華やかさに心震わせせて「わ~きれい~」という気持ちがまったく湧き起ってこないことに、満開の桜の下で違和感を覚えました。
暖冬でもしかしたら例年よりも花のつきが良くなくて、実際、いつもよりも華やかさにおいて劣っていたのかもしれませんが、どうにも色あせて見えてしまうのです。
つくづく小林秀雄ではないですが「花(桜)が美しいのか、美しいと思うから花(桜)」なのか」、今回の桜の花見で、後者→「美しいと思うから花」なのだと実感しました。
美しいと思う側の心理が変化したことで、同じ美しさに対しても濃淡があるからです。
心理の変化は、いうまでもなく新型コロナウィルス感染のため、私の心に様々な不安が渦巻き、それがスキーマ(事象を捉える枠組み)となってフィルターをかけて美しさを減軽させてしまったのだと思います
日本人にとって桜は、文化として積み上げられてきた記憶の集大成の結集が体現されたもので、花見でどんちゃん騒ぎをするにせよ、静かに眺めるにせよ、ただ無心に花をめでることは不可能な植物としての客観物ではありえず、文化的象徴です。
明治以降桜の花を国威高揚の象徴としてソメイヨシノに統一され、日本全土に植樹された「創造された国花」という歴史的背景もあって、桜は日本文化そのものだと思います。
せいぜい春の陽気に誘われて、感染の危険度の低い屋外に繰り出し、気を取り直して、無心で桜に対峙し、その美しさを感じ取ろうと思います。
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