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死者の許容

 医師里見清一氏の本の中で「経済活動と感染防止の線引きは、感染による死者数をどれだけ社会が許容できるかによる」という言葉があり、どきっとしました。

 これは新型インフルエンザ流行期に感染予防のための政策について触れたものですが、現在、緊急事態宣言解除後、再び感染者数が増加している新型コロナウイルス感染対策に関してもまさに、この局面に直面しているのだと改めて実感しました。

 幸い現在の状況は重症者数が少なく、医療体制はまだひっ迫していなく余裕があるようですが、これが緊急事態宣言前や中のような状況が繰り返されたならば、私たちは感染による死者をどれだけ許容するのかの線引きの選択を迫られることになります。

 普通の季節性インフルエンザによる毎年の死者数は、コロナによる死者数をはるかに超えていて、しかしワクチン(100%有効ではない)や、抗ウイルス薬が開発されていることもあり、流行期にせいぜい学級閉鎖が数校生じるだけで、社会全体に緊急事態宣言が出されることはありません。

 高齢者施設などでインフルエンザによる死亡例は多数存在するのですが、コロナのような社会全体の感染対策はとられることはありません。もしインフルエンザに対しても、今回のコロナと同じような感染症対策が取られていたら(その証拠に、今年のインフルエンザ流行はなかったようです)、季節性インフルエンザ流行による死者は抑えられていた可能性が考えられます。

 しかし、私たちはインフルエンザに対してはそうしなかった。

 ということは、発生する死者を、マスコミが情報を積極的に流さないこともあって、無意識に許容していたということになります。

 たぶん、実態をイメージできなかった。つまり自分自身の身に迫ったものとして考えられなかったのだと思います。

 コロナに関しては、溢れる情報の洪水のために、危機意識が迫り、否応なしに自分自身のこととしての当事者意識を芽生えさせられ、緊急事態もしくは活動自粛を受け入れる精神的土壌ができたのだと思います。

 他人はどうであれ、少なくとも自分が死者としてカウントされたくないと。

 こう考えると、社会死者の許容は、死をどれだけリアルにイメージできるかの市民のイマジネーションに寄るものだとつくづく思いました。