磯野真帆著「なぜふつうに食べられないのか」を読んで感じたのは、「食べる」という行為が、本能をベースにしていながら、人間にとっては文化の影響を強く受けて形成されているということです。
例えば「何を食べるか」は、文化によって「**食」と呼ばれる伝統的な食文化や、宗教的にタブーとされるもの、文化の異なる食に対する奇異の念など、食に対する概念は文化によって規定されています。
私たちは食べられるものすべてを分け隔てなく食べているわけではないのです。
摂食障害の患者の証言から強い違和感を持って感じられたのは、食に対して観念的にとらえている視点でした。
それが彼女たちを「ふつうに」食べられなくさせている。ここで言う「ふつう」とは、自分の中の本能的な欲求によって(お腹がすいた、おいしそう)主体的に食物を摂取することですが、その際私たちの脳裏には、食べたいという主体的な欲求を満たすものとして現れるのですが、摂食障害の患者にとっては、食べ物は「太るもの」、「カロリーのできるだけ少ないもの」、「体の中にとどまってはいけないもの」という、社会が彼女たちに植え付けた食に対する概念に支配されているということです。
私が驚き、自分自身も振り返ってみると、現代社会を生きている者はすべて、この社会が押し付ける食の概念に深く影響されていることです。
スーパーなどで買う食品のパッケージにはすべてカロリーや成分が提示され、宣伝文句はこれを食べるとこれこれの栄養がある。それらを参考にして食を選ぶのは日々のデフォルトになっています。
食べるという自然行為なのに現代社会を生きる私たちはその一部が「情報を食べる」行為になってきている。
その極端な場合が、社会に受け入れられたいという思いを、自らの身体をコントロールすることで、社会が認めてくれるそれに作り替える手段として利用しようとし、その結果、情報としての食の浸食が身体のホメオスタシスを壊し、食べるという本能的な営みを壊してしまった摂食障害だと知りました。
そしてそのベクトルは現代社会を生きているすべての人が持っている。食って社会的な行為なんだなあと、文化人類学者としての磯野氏の指摘に深く納得しました。
食べるという行為は本能的な行為なだけに、快の感情と深く結びついている。その快の感情は、食べるという行為が個人的な身体の作用だけでなく、身体が棲まう社会の中で共に食べるという喜びとも深く結びついているのだとつくづく思い知りました。
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