コミュニティクリエイターの山崎亮氏がポストコロナ社会について、「適疎」という造語を提唱していました。
「適度な過疎」という意味だそうです。さすが!
これからの議論は、「過疎」や「過密」ではなく、「適疎」がテーマになると思います。「適切に疎であるという状態が生きやすいのではないか。お昼になるといちいち行列をつくって高いランチを食べるような過密状態は避けたい。自分の給料の大半を高い家賃と飲食費に流すだけの生活というのも見直したい。だから「適切に疎」な地域で暮らすのがよいという価値観が生まれると思います。
今回のコロナ感染流行で見えてきたことは、今まで都会に集中していた物事が「必然」でも「避けられない」ことでもなく、特にテクノロジーの発達した現在においては集中を回避することは可能だということです。
その一方、都会に比べて地方は人材不足や交通などのインフラの不足などで、非効率、生産性が低いなどと不利であったものが、都市の過密の被害を受けやすい都会と比べてその可能性も低く、地方の過疎現象が有利になるということです。
実家のある山口の山間地は典型的な過疎地域で、86歳になる認知症初期の母が一人で暮らしているため、3か月ごとに帰省しています。
帰省するたびに感じるのは、過疎化の急速な進行と、都会とはくらべものにならないぐらい豊かな資源(自然を含めて)です。衣食住を維持することに関して言えば、東京では力を抜いたら生きていけない思いがずっとしていて、そしてそのすべてが他者に依存していて、自分で何とかできないもどかしい思いがしているのですが、田舎では(実家で家もあり、必要に迫られれば畑や田を耕せばいいといこともあり)、自分で何とかできるようなそんな脱力した気分になります。
実際は田舎のコミュニティの付き合いは濃厚で、それが苦手だから都会に出たのでもあるのですが。
山崎氏はこれからの地方のコミュニティを活発にするには、リモートで全国の人がその事業に参加できるようなテクノロジーの技術を教育指導を自治体で支援することが必須なのではないかと提案していました。
私も未だにガラケー使用でSNSもしていなく、全くリモートテクノロジー疎くそのやり方を知らないので、それらの使用に敷居が高いのですが、地方に暮らすとなるとそれらのテクノロジーの使用が暮らしの利便性やグレードを上げてくれると感じます。
コロナ感染流行で人々の意識が変わり、社会の変化が加速化されるような予感がしています。
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