脳性麻痺で小児科医の当事者研究者熊谷晋一郎、中動態を提唱する哲学者國分巧一郎氏の対談「<責任>の生成」を読んで、長い間疑問に感じ、常に違和感の源泉であった、「能動」⇔「受動」の二分法について新たな見解を教えられました。
自己責任という言葉が日本では最近頻繁に言われるようになり、私自身も本意ではない結果を自分に納得させる言葉として、そして100%自分の意思が関与しないことはないだろうという思いから、「自己責任だからしょうがない」などと口にします。
それは自分が関係した(招いた?)結果を、自分でとるということで、利己的ではなく他罰的に思われ、倫理的にも正しいように思います。
けれども、そうしたときにいつも、「本当に自分の意志か?」という疑問が湧き起こり、納得できない気持ちもくずぶります。國分氏のギリシア語源の研究によると、古代ギリシア時代には能動態⇔中動態が能動態⇔受動態へと変化し、それに伴って人々の行為に対する意識も変わってきたようです。
中動態とは、自分の意志とも他人の意志とも言えないどっちつかずの状態です。
これはともすれば責任回避の手段として用いられる可能性もあるのですが、
私は中動態という概念によって、自分自身に強迫的に課していた重責を下ろしたような解放感を味わいました。
自分の行為は100%自分のせいではないというのは、人間の脳の資質でもある。
この中動態を社会的に認めることで、当事者としての可能性が広がるような気がしました。
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