朝日新聞ネット版、デザイナーのナガオカケンメイ氏の連載エッセイ「ロングライフ」を毎回楽しみに読んでいます。
氏は最近故郷である静岡県や沖縄に店を出店する準備を進めているようで、長年暮らした東京と地方を行き来する機会が増えて、改めて都会と地方について感じることがあるようです。
沖縄では元々店のない地域の人たちが共同して品物を仕入れて販売する共同販売という様態があり、ナガオカ氏はそのような店舗を出店することを計画しているそうですが、そのような助け合いの営みに賛同してのことですが、
その共同販売ということに、学術的に関心が高まったり、都会の人たちも興味を持って参入する話を聞いた地元の人の戸惑いの声を聞いて、
氏は自分はすっかり都会目線で捉えていたことに気づいたそうです。
私自身も、ここ10年両親の介護のために、山口県萩市の山間部にある実家へ頻繁に帰省するようになって、自分自身の田舎に対する感じ方の変化に、自分がすっかり「都会目線」になってきていることに気づきました。
中学のころから過ごし始め、高校卒業まで、延べ6年間しかいなかったのですが、
とにかく田舎の生活は嫌でした。早くここから出たいとない日願っていました。
10代の私にとって(そしてそこを離れた20代~40代の私にとっても)
実家の両親はそうでもなかったのですが、地域のコミュニティの閉鎖的で、保守的なところに、
息が詰まりそうで、嫌悪感さえ抱いていました。
けれども、都会生活が30年を過ぎ、東京に足場を固めたころから、
田舎について、距離を「他者」と捉えることができるようになったためか、
田舎に対する心境が変わってきて、「いいなあ」と想えるようになりました。
私の育ったころからもう40年以上も経ち、田舎の人々の世代も変わり、
交通網や通信の発達で、都会と田舎の距離も縮まったためか、
そして何より、私の側の心境の変化=都会目線で、
田舎を捉えるようになったことが、田舎の再評価に繋がっていたのだと
ナガオカケンメイ氏の指摘から気づきました。
それは田舎の再発見であると同時に、他者の目線でもあったのだということを。
もう、決して自分のアイデンティティを脅かさない他者としての田舎になったのだなあと。
当時者の目線で田舎を捉えることができなくなったことの裏返しなのかと、
時間の経過が自分の心理に及ぼした影響を改めて感じました。
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