ウクライナの小説家アンドレイ・クルコフ著「ペンギンの憂鬱」を読みながら、大国ロシアの支配下に生きるウクライナの人々の「憂鬱」をひしひしと感じました。
物語は、ある日新聞の未然の死亡欄の原稿を依頼されるようになった受けない短編小説家ビクトルが、ひょんなことから動物園で飼育できなくなったペンギンを引き取り、ミーチャと名付け同居するようになった話で、ギャングの娘を預かったり、死亡記事に載った人々が次々と亡くなったり、ホラー小説時見てくるのですが、クルコフの小説がみなそうであるように、ペーソスの漂う乾いた文体で描かれ、それが一気に結末の大転換に繋がって、それまでのプロットにちりばめられた数々のことが隠喩であったことを知らされます。
これが大国の支配下に生きるということなのか。
ヴィクトルが体験する数々の不条理が、不条理と意識されたり、反発を覚えることは、無意識的に禁止され、淡々とその命令に従うことが生きる術となっている。
抵抗や不満を強く意識することはあらかじめ禁止されているけれども、その思いを体現しているのが、物言わぬペンギン「ミーシャ」の何事にも如何せず淡々と動物としての本能に従うように生きている様子。
そして自身の境遇を知らぬためか、これまたマイペースでミーシャやベビーシッターと子供としての楽しみに生きる少女。
自分のまわりで次々に生じる奇妙な死に、次第に自分自身も巻き込まれていくことに抵抗できないまま、ずるずると。。。
けれども、ペンギンや少女の日常は平穏に変わりなく。
何かがおかしい。変だ。
言葉にして捉えることは、自身の命をも危険にさらされる可能性があるという重苦しい日常。
クルコフの小説の舞台の大半は、寒く雪の降り積もるウクライナの冬の陰鬱な中で繰り広げられ、登場人物たちは、自分たちが何を不満に、何に怒りを、何に閉塞感を感じているのか自覚することを回避するかのように、ウオッカを煽り酔いに浸る。。。
ウクライナ国民が現在激しくロシアに抵抗するのは、このような言葉にできない思いが根底にあることを感じました。
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