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わきまえる

 アカデミー賞授賞式で、コメディアンのクリス・ロックが壇上から、ウイル・スミスの妻で女優の容姿をからかうジョークを飛ばしたことに抗議して、スミスがいきなり壇上にのぼりロックを平手打ちした事件に対する、日米の反応が異なることが話題となっています。

 私自身は、このニュースの映像を見て、「あ~双方とも、アメリカのマッチョ文化を無意識に体現しているなあ」とあきれていました。

 アメリカ社会はウーマンリブの発祥の地であり、女性の社会進出も進んでいて、女性も積極的に発言して、日本よりも女性の権利や地位が認められているように感じられます。

 アメリカ女性も、日本女性のように愛想笑いを強いられることがないためなのか、男性に対する媚びをあまりふるまわないように感じられます(すべてアメリカドラマの熱心なファンであることから得た情報、笑)。

 しかし、アメリカのテレビドラマやハリウッド映画を観ていて、強く感じるのは、男性のすべての台詞が「マウンティング」であるということです。

 相手に対する親愛の情を表わす照れ隠しと双方とも無意識に納得しているのでしょうが、男性同士の会話は、ジョーグで包まれているとはいえ、相手を揶揄し、こきおろし、それを自分に対する親愛の情の表明として、喜んで受ける光景がしばしば見受けられます。

 脚本も演じる俳優もそれがアメリカ社会のマッチョ精神を体現しているなんて思いもしない無意識のあらわれなのでしょうが、アメリカほどマッチョ信仰のない日本社会の人間から見れば、アメリカは常にパワーの強さを表明しなければ=つまり、マッチョを生き抜いていけない社会なのだなあと感じます。

 そしてそのマッチョが最も強く現れるのが、女性に対するアピールです。

 アメリカのドラマの主人公男性が、社会的地位があるの有無にかかわらず、自分のパートナーである女性が侮辱されたと捉えられると、必ず、相手を殴るシーンがあり、そして、それは女性を守りたいという愛情から来ていることとして、男らしい(それをしない男性は男の隅にも置けない)と、殴った男性自身はもとより、自分のためになぐってくれた男性に対して愛情が深まったように感じられている女性が描かれていることです。

 それを見て、アメリカ社会の一見女性を敬っていると思われるものが虚偽であるなあと痛感します。

 アメリカ女性が「わきまえ」ないように感じられるのは、男性によって守られているという前提があるからなのだなあと。

 今回の事件では侮辱された当時者である女性自身の思いがまったく無視されてること。

 本来ならば、侮辱された直後に、当事者である女性が抗議をして、願わくば、おバカな男をやりこめることができればよかったのにと悔しい思いをしています。